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楡 (橘型駆逐艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
基本情報
建造所 舞鶴海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
級名 橘型駆逐艦
艦歴
計画 1944年度(昭和19年度)計画
起工 1944年8月14日
進水 1944年11月25日
竣工 1945年1月31日
除籍 1945年10月5日
その後 1948年、解体
要目(計画値)
基準排水量 1,262 トン
公試排水量 1,530 トン
全長 100.00 m
最大幅 9.35 m
吃水 3.30 m
主缶 ロ号艦本式ボイラー×2基
主機 艦本式タービン×2基
出力 19,000 馬力
推進器 スクリュープロペラ×2軸
速力 27.8 ノット
燃料 重油 370 t
航続距離 3,500 海里/18ノット
乗員 211 名 / 279 名[1]
兵装
レーダー 22号電探×1基
ソナー 四式水中聴音機×1基
三式探信儀一型×1基
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(にれ)は日本海軍駆逐艦。仮称4809号艦、橘型(改松型)駆逐艦2番艦として舞鶴海軍工廠で建造された。艦名はニレ科の樹木の総称のこと。艦名としては樅型駆逐艦の3番艦「」に続いて2代目。

艦歴

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竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将)に編入。瀬戸内海に回航され訓練に従事する。

4月25日付で第三十一戦隊鶴岡信道少将)第五十二駆逐隊に編入された[2]

6月22日、B-29の爆撃を受け損傷し、戦死25名を出す。爆弾は缶室に直撃して機械室にも被害を与え、17ノットの速力しか出なくなった[3]。このため、7月15日付で第五十二駆逐隊から外されて特殊警備艦となり、駆逐艦長の下田隆夫少佐以下全乗員は「」に移動した。艦は呉鎮守府部隊呉防備戦隊に編入されたが、若干の保安員以外は乗員なしのまま終戦を迎えた。10月15日除籍。

戦後は呉で浮桟橋として使用されていたが、1948年(昭和23年)1月から播磨造船呉ドック(旧呉海軍工廠)で解体に着手、4月20日に解体は完了した。

歴代艦長

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※『艦長たちの軍艦史』369頁による。

艤装員長

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  1. 下田隆夫 少佐 1944年12月25日 -

駆逐艦長

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  1. 下田隆夫 少佐 1945年1月31日 - (7月15日退艦。「樺」へ)

脚注

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参考文献

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  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。 ISBN 4-7698-0386-9
  • 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。ISBN 978-4809901089 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年。 ISBN 4-05-603251-3
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(6)』。JACAR:C08030127900 
    • 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(7)』。JACAR:C08030128000